令和7年7月24日
【記者】
最高裁判事に就任されるに当たって、御所感と今後の抱負をお聞かせください。
【判事】
最高裁判所の判断は非常な重みをもって受け止められ、また、その影響力は大変に大きいものと承知しています。その判断に自分が参画することについては、「私に務まるのか」と自問してきました。私は、民法を中心に40年近く研究をしてきましたが、その民法でさえ分からないことが多くあるのに、自身が専門としてきたのではない法領域について、また、裁判の経験がない中で、務まるのか、不安はなおあります。しかし、最高裁判所裁判官は職業裁判官のバックグラウンドを持つ方ばかりではありませんし、また、そうではないからこその視点もあり得るし期待されるものと思われます。最高裁判所に事件が係属するまでには、当事者の主張立証活動を踏まえた下級審の判断の積み重ねもあります。様々な考え方に耳を傾けて、何が法であるかをしっかりと見極めて、最高裁判所に対する信頼に応えていきたいと考えています。
【記者】
これまで研究者として取り組まれてきた仕事や政府の委員などの公的活動で特に印象に残っているものがあれば教えてください。また、研究者として最も大切にしてきたことは何か、それを最高裁判事の仕事にどのように生かしていきたいとお考えか、併せてお聞かせください。
【判事】
私は、これまでの研究者としての生活において様々な方から御指導や御教示を受けてきましたが、その中でも、学部の恩師であり研究者の道へ導いてくださり、その後も親身に御指導くださった星野英一先生と、助手として引き受けてくださり指導教員をお務めくださった米倉明先生のお話で、特に記憶に残っていることがあります。星野先生からは、研究というのは、先人が築いてこられた山に小さな石を一つ積むことだ、と言われました。「小さな石」でいい、それを一つ積むこと、それが研究であり、学問だと。米倉先生からは、「知的くず」、先生はintellectual rubbishと言われたのですが、それを出してはならない、と戒められました。研究というのは、論文を読んだり、考えたりしているときは、とても楽しいのですが、いざ自分の論文を執筆し、自身の分析や考えをまとめるとなると、苦吟するばかりで、原稿を書いても、これを世に問うて良いのか、本当に悩みます。「知的なくず」を出すことにならないのか、自分は何か新しいことを一つ加えられるのか、自信が持てないからです。そういう中で、これまで最も嬉しかったのは、私が研究者として歩みを始めた初期に書いた論文を、何十年も経ってから、ある若手の研究者になる方が、法科大学院生のときにその研究論文で取り上げてくれたことです。その公表された研究論文は、私は非常に面白いと思ったのですが、その論文の契機となったのが、私が最初に私法学会でした報告だったのです。もちろん批判されているのですが、それを見たとき、私があの時点で非常に悩みながら書いたことは無駄ではなかった、それをこうして本当に何十年も経ってから、次の人が考えるそのための糧になる。研究とはこういうことかと思いました。
実は、それは立法の検討の中でもあります。法制審議会の部会におきまして、様々な考え方や制度の選択肢を検討する中で、自分が、あるいは自分たちが、望ましいルールであると考えていた案が採用されないことは、少なからずあります。しかし、そのときに、こういった議論をしていたことを、50年後に大学院生が発見して、次に実現してくれるかもしれない、現在、制度化されなくても、今後の参考になることがいつかはあり得るのだと、それはメンバー間でそう話しています。実際、民法の解釈におきましては、明治期の議論を参照することも一般的なので、何十年も経ってからその当時の議論を参考にするというのは、普通のことでもあるのです。そしてそれは、最高裁判所の判断においてもそうではないのかと思います。
研究者には様々なタイプがあります。御自身の世界を確立して、それを自信を持って問われる方もありますが、私は、むしろ、様々な見解を前にして、それらの考え方を多面的に、複層的に整理し、その違いがどこにあるのか、どの点が鍵となっているのかを探るというタイプだと考えています。それだけに、特定の一つの考え方をこれだとして打ち出せない、そういう悩みもあります。しかし、この姿勢やタイプは、異なる考え方があるからこそ、紛争が生じ、その解決が求められる場においては、それぞれの立場や考え方を考量して判断することに長じるという面があるのではないかと思います。丁寧に立論を分析すること、その上で、何があるべきルールであるのかを探究することは、最高裁判所の職責に生かせることではないかと考えています。
【記者】
15人の最高裁判事のうち、女性は過去最多の4人になります。この点についてお考えを聞かせてください。
【判事】
「過去最多の4人」という点について、その「4人」の実現に自分の存在が寄与しているのだとすれば、とても嬉しく思います。「4」という数字には、個人的な思い入れがあります。と言いますのも、私は、前任が、東京大学法学部教授ですが、東京大学法学部の教授会メンバーのうち、私は、4人目の女性教員だったからです。最初の女性教員が英米法の柿嶋美子先生、お2人目が政治学の加藤淳子先生、3人目が政治学史の川出良枝先生で、私が4人目、また実定法としては初めての女性教員でした。私が加わったのは2010年10月からですが、この4月、2025年4月には、女性教員は、私を含めて13人、それも、柿嶋先生と川出先生が御定年で御退職になり、言わばマイナス2となった上での13人です。割合にすれば、15%から16%程度ということになりますが、私のときは、5%弱であったことからすれば、着実にその数は伸びていると言えるでしょう。これは、女性の法学・政治学の研究者の数や割合自体が増加していることの自然な反映です。また、そもそもの女性の法学部生の数も、私のときは定員の約5%でしたが、本年2025年4月に東京大学法学部に進学した学生の3割が女性の学生でした。
裁判所に目を転じれば、裁判官のうち女性の割合は昨年2024年度で約25%、また、新任判事補においては、本年2025年4月段階で、約40%と聞いています。これらの数字からすれば、最高裁判事の女性の数や割合が増えていくのは当然のことのように思われます。法学の研究も、また、裁判官という職業も、女性であるという属性は、その向き・不向きや優秀さに関係がないことだと思われるからです。であれば、言わば母数が増えれば増えていくのは自然なことだろうと思います。そうは言っても、その母数を増やす点において、女性の学生がより多く法学や法律家を志してくれるのはやはり嬉しいことであり、私の就任によって、「私も」と思ってもらえるなら、それは私自身を力付けてくれることでもあります。
【記者】
東京大学の教授、前任という言い方をされましたが、法学政治学研究科長と法学部長、政府系の委員等をされていたと思うのですが、それらは既に全てお辞めになられているという理解でよろしいですか。
【判事】
政府系の委員につきましては辞任しております。東京大学については、昨日付けで退職の手続をとっており、それとともに法学部長、法学政治学研究科長につきましても辞任の申出をし、教授会でお認めいただいて、昨日付けで辞任ということになっております。
【記者】
民法を専門に研究され、また、これまで政府の立法作業にも携わられてきた中で、最高裁判事としてどのようなところを特に生かしていきたいか、もう少し詳しくお聞かせいただけますか。
【判事】
立法作業には様々なものがあります。法務省所管のものもあれば、消費者庁のものや、金融庁のものもあり、それぞれの具体的な立法化においては、様々な考え方がある中で、何がこの時点で最も望ましく、かつ、立法化するにふさわしいものなのか、例えば今後もなお解釈に委ねた方が良いとか、あるいは判例の展開を待つとか、いろいろな判断をしていきます。先ほど法制審議会の議論において様々な選択肢がある中で採用されたものもあれば採用されないものもあるということを申し上げました。そのような作業においては、いろいろな考え方がある中でその考量をどうするのか、あくまで立法論という形ではありますけれども、それを検討する経験を積んできたということは一般的に意味があることではないかと思っております。それから、これは具体的な立法とも関わりますが、その制度趣旨を理解するという点でも、立法の過程についてある程度触れてきたということは役に立つのではないかと思っております。
【記者】
最高裁の裁判官は、判決や決定で、補足意見や反対意見といった個別意見を述べることがあるかと思いますが、この個別意見に対する現時点のお考えや見方などをお聞かせください。
【判事】
最高裁判所の裁判官は、各自が意見を述べるというのが裁判所法で決まっているかと思います。多数意見を構成する場合もあれば、補足意見ですとか、意見ですとか、反対意見ですとか、様々な立場があり得るところです。どの立場に立つにせよ、多数意見を含め、各裁判官が意見を述べられるということは、最高裁判所の特徴だと考えておりますし、それ自体が非常に意義のあることではないかと思います。先ほど、多数を構成しなかった、あるいは採用されなかった立法論もやがて意味を持つということを申し上げましたけれども、最高裁判所の裁判官の意見というのは、そのような性格も持ち得るもので、仮に多数意見を構成しないとしても、それを補足する視点ですとか、それとは異なる視点ですとか、考え方を出せるというのは非常に意義があることではないかと思っております。そして、私自身も、これまでの研究で、多数意見を理解するのに、個別の補足意見ですとか、意見ですとか、反対意見が非常に役に立ったこともありますし、あるいはそれぞれの意見を含めて検討させていただいたこともありますので、非常に豊かな素材を提供するものではないかというふうに考えております。
【記者】
休日の過ごし方や、趣味をお聞かせいただけますか。
【判事】
休日は、家事をしています。それから、趣味ということですと、お芝居に行くことが多いです。最近は歌舞伎座に行きました。新橋演舞場にも行きました。ですから、観劇ということになるかと思います。
【記者】
星野先生のお言葉の中の「石を積む」ということが、研究者としての心構え、礎と拝察いたしますけれども、この考え方を最高裁判事としてどのように生かしていこうとお考えでしょうか。
【判事】
星野先生が言われた「石を積む」というのは、研究者を志したいと考えたときに、研究者とはどういうものかということを教えていただいたかと思います。そのときに、非常に大きなことをやるというのではなくて、これまでの先人の業績を踏まえて、そこに何か新しいことを一つ付け加えられるかというのが、私たち研究者の役割だと教えていただきました。それは、おそらく法学という学問分野の特性だと思います。そして、最高裁判所の判断というのは、これまでの法体系、あるいは判例の集積、議論の集積の中で、個別の事件にどう向き合うかということですので、これまでの法の展開を踏まえた上で、この事件の解決として何が望ましいのかということを考えていくという点では共通した性格があるものかなと思っております。もちろん違う面も多々あるかとは思いますけれども。
【記者】
今回、過去最多の女性裁判官4人になるところ、近時、夫婦別姓など性別にまつわる裁判なども目立つことがありますが、そうした審理において、最高裁の構成が何か影響を与えるようなことは考えられますでしょうか。
【判事】
基本的には、個々の裁判官の御判断ですし、そのバックグラウンドを踏まえてということになるかと思います。先ほどの御質問にもありましたように、個々の裁判官がその意見を表明できますので、必ず多数意見でないといけないということでもないわけです。そういう点では、女性の割合というものが最高裁判所の判断そのものに直接影響を与えるかどうかというのは、正直分かりません。まだ裁判にも入っておりませんので。実際にこれから向き合うことになるかと思いますが、一般的には、個々の裁判官が正に意見を戦わせて最高裁判所の判断を作っていくということだと思っております。
【記者】
先ほどのお話の中にあった、若手の大学院生が取り上げた論文ですが、どのようなテーマの論文になりますか。
【判事】
私の研究者としての最初の論文が契約の解釈というもので、そしてその大学院生、ロースクール生ですけれども、現在は、ある大学の准教授でいらっしゃるわけですが、彼が取り上げてくれたのも契約の解釈で、より構造的に契約の解釈の議論を分析し提示してくれたというものでした。
【記者】
信託法や消費者法も専門の分野に掲げていらっしゃいますが、研究されてきた中心の分野というのは、やはり契約の解釈ということになるでしょうか。
【判事】
契約の解釈自体は最初に取り上げたテーマですけれども、大げさに言えば、生涯のテーマだと考えています。究めた感じがいたしませんし、議論はそれほど煮詰まってはいないのではないか、様々な考え方があり得るところではないかと思いますし、大きなテーマだと考えています。民法も非常に分野が広いので、強いて言えば契約法ですとか、法律行為ですとか、そういうところを専門にしていると考えているのですが、様々なこれまでの検討の中で、いろいろな分野について勉強させていただく機会がありました。その中で、信託法や消費者法というのは、かなり自分でも時間を割いて勉強してきたというところがあります。それから、立法の中でも、現行の信託法の制定ですとか、消費者契約法の改正ですとか、様々な形で関わらせていただいた経験があります。また、大学の授業において、信託法と消費者法は、民法とは別に担当しておりましたので、そういったことも含めて、研究テーマ、あるいは専門分野というふうに考えております。ただ、民法で言えば、いつかは契約の解釈に戻りたいとは思っております。
【記者】
女性が4人で過去最多という点ですが、15人のうちそれでもまだ4人という見方もあるし、4人になったという見方もあると思います。4人になったことについて、まだ少ないと思っていらっしゃるのか、どのようにお考えなのか、お聞かせいただけますか。
【判事】
具体的に最高裁判所の15人の中でどのくらいの割合が女性であると望ましいのかということについては、これ自体はやはり内閣の御判断に立ち入ることになりますので、私から申し上げるのは差し控えさせていただきます。4人になったこと、そして自分がそれにあずかっているということについての感想と言いますか、それをとても嬉しく思っていること、また、そのことの評価については、先ほど申し上げたとおりです。